こんにちは シランバイです!
前夜は、岡山駅近くのお店で、誕生日を祝って貰いました💛
普段、山陽新幹線に乗っても岡山は素通りしている。
岡山駅あたりを散策してると、地下入り口がある!ほうー!地下鉄も走ってるのかとおもいきや、地下道は最新のステキなお店が並んでいた✨✨
今日は、昨日のお天気がウソのように、雪、雪が‼
ホテルのバイキング会場に行くと「岡山でもめずらしいんですよ!」「お好きな場所にどうぞ」と笑顔で案内される。
ホテルを後にする..しまった!足もと足もと準備不足だ!
ホテル内には車が停められなくて、近くの立体駐車場まで歩く..
冷たくても 雪かきは楽しいね!
車で10分位で後楽園に到着する予定が
大廻をしたようで、
もう少し時間がかかった。
後楽園についたが、駐車場からも入口までは少々歩く。
岡山後楽園は、今から約300年前に岡山藩2代藩主池田綱政[いけだつなまさ]が藩主のやすらぎの場として作らせた庭園です。
綱政の時代には、藩主の居間延養亭[えんようてい]や園内に点在する建物の座敷から眺望を楽しむという要素の強い庭でした。
綱政の子継政[つぐまさ]は能舞台周辺の建物を大きく改築し、園内中央に唯心山を築き、そのふもとに水路を巡らせ、沢の池と廉池軒の池を結ぶひょうたん池を掘らせました。こうした改変で庭を巡り歩いても楽しい回遊性が備わってきました。継政の孫治政[はるまさ]は倹約のため、田畑の耕作に当たっていた人々をやめさせ、一時的に芝生の庭園となりますが、その後すぐに園内東の大半は田畑へと戻ります。現在の井田[せいでん]はその名残です。こうした時代ごとの藩主の好みや社会事情によって後楽園の景観は変化しその積み重ねが歴史となる。
okayama-korakuen.jp
①雪の延養亭(えんようてい)
藩主が後楽園を訪れた時の居間として使われた。沢の池、唯心山、借景の操山と、園内外の景観が一望できる、後楽園の中心的建物。
②能舞台 能に熱心であった池田綱政は舞手であった。
③二色が岡(にしきがおか)野鳥が多くいる。
④花葉の池(かようのいけ) 元禄時代初期、巨岩を90数個に割って運び、元の形に組み上げた「大立石」がある。6~8月頃白いハス(一天四海【通称大名ハス】)が見ごろとなる。
右手に唯心山(約6mの築山)
上流から温かめの水がくるから?大集合!
鯉好きにはたまりませんね(^^♪
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後楽園と岡山城を行き来するなら月見橋を渡って…。月見橋の横には、絶景スポットの城見茶屋があり、見晴らしの良いロケーションが広がります。
岡山城は、戦国時代の大名・宇喜多秀家によって、8年の歳月を費やして1597年に完成された。城は西向きであったので、秀家は、背後から敵に侵入されるのを防ぐために、近くを流れる旭川を、城の東背後を流れるように大工事を行なった。天守閣の壁に黒漆塗りの板を取り付けるこの時代の建築の特徴から、外観は黒く、後の時代には「烏城」と呼ばれるようになりました。秀家は、岡山城を戦の施設としてだけでなく、商人や職人を集めて城下町の整備を行い、治世の府としました。
池田家が城主になった後も岡山城の周辺整備は進み、17世紀末には旭川を隔てた北側に、広大な大名庭園である岡山後楽園が設けられました。
岡山城は、歴代城主の下で岡山の町並みの発展を見続け、近代都市の礎となりました。
www.okayama-kanko.net
宇喜多秀家の築いた天守閣は石垣からの高さが20.45m。その天守閣から広がる360度の眺望はまさに格別です。旭川を隔てた後楽園をながめれば、かつて城下を治めたお殿様やお姫様の気持ちになれるかも。
お姫様気分はいかが?
掛け軸には
天皇陛下のお歌
昭和43年歌会始のお題は「川」でした。
岸ちかく 烏城そびえて 旭川
ながれゆたかに 春たけむとす
昭和天皇が天守閣のご印象について詠まれた短歌、さらに翌年皇居で行われた歌会始でご披露された。
塩蔵と書いてあるからお塩を入れていたのか
岡山なら日本六古窯の一つ、備前焼かな。
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感想
ボランティアガイドさんが、5年前にも雪が降りましたよ!
四季を通じて景観が変わるので、また見に来てくださいと話してました。
後楽園で飼育されているタンチョウ鶴の話とか、まだまだ話は尽きません。。。
園内は舗装はしてないので、お天気によっては足元気をつけてね!
帰り正門出て、売店でぜんざいを食べたら一気に温まり帰路につく。